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Corpus 14 -最終章-

「わたしはいつもレールを外れる」

 ブランドが始まって早6年。ブランドをちょっとだけ振り返ると、「自分で自分を褒めてあげたい」と有森裕子バリの胸ははれないけれど、ささやかながらやれることはできたんじゃないかとも思ってる。
 もともとブランドの考えもそうだったけど、ファストファッションのように、消費されないものを作りたいと思って、アンティークになりえるジュエリーを提案してきた。ところが、SS、AWと毎年作ってきて、なんだか我慢しきれない違和感がいつの間にか溜まってる家のホコリみたいに蓄積されてきていた。だから21SSをもって、ファッションのレールから外れることを決めた。
 元々この時期にはこんなことをしなきゃというレールが苦手だった気がする。思い起こせば幼稚園。花瓶にそれぞれ色を塗る遊びがあったとき、みんなはカラフルに塗るところを、私だけピンク1色で仕上げた。どうしても赤とか緑をぬって、その境目が滲んで黒ずんだりするのが嫌だった。小学校は恥ずかしくて自主規制しなきゃいけないようなことを学校帰りにしていたり……(*決して人に迷惑をかけてはいません!)。中学から女子校に進むと脱線が加速。中高時代は、銀色の保冷バックをファッションとして取り入れてみたり……(キルティング可愛くない?)、スケーターファッションに憧れてAGとかWhoeverとREVOLVERとかを着たり……。REVOLVERってアラタのブランドって知ってた? 今や俳優だけれど、私の中ではデザイナーのアラタが強い。当時もファッションにしか興味がなくて、もちろんポーザーw。いわゆるキラキラなJK的生活とは無縁なエアスケDAYSだった。人間、感性に幅も必要でしょ?
 そういえば、実家のすぐ近くに「ダダリ」というカフェがある。限界集落みたいな場所には似つかわしくない洒落た店で、ダリの作品を個人所有してる。ああいう場所で、本物のアートを見せるというズレ感が子ども心にグッと来ていた。
 美大に進学し、夜は友人とクラブに行って、朝まで遊んで……という華の大学生活を送ったのは入学した直後まで。1回行ってやめました。だってほら、夜は寝るもんだから。「あの夜はすごかった、チョー面白かった」なんて尾ひれはひれがついた話は、大抵しょうもないのが相場ですから。今の私がこうしてブランドをやるきっかけになったのかなと思うのは、2年生の時。課題で「コンセプトの甘さ」を先生に指摘されてから、課題と勉強に明け暮れる本当の意味での華の大学生活が開始。特にコルクルームという場所で当時東コレで活躍していたデザイナーの人たちとふれあい、学ぶことで、自分がファッションの仕事についていくんだろうなと現実味が帯びてきていた。
 友達だったはずの人たちがなぜかギスギスし始める3年生の就職活動時期。これも全くやる気がなかった。自分のブランドをやるんだろうなとぼんやり想像していて、留学を考えてもいた。何も保証がないけれど、ここで焦らないのも、卒業後は企業で働くというレールにそもそも乗ってなかったからかもしれない。
 卒業後、パリでの約2年はスタージュを初め、自分の時間をどう使うかに気づく貴重な時間だった。帰国直前、学校の友達にブランドをやらないかと誘われた時は、パリを離れるのがこんなにも辛いもんかと自分の経済力のなさをちょっと恨んだりもした。
 帰国して、留学費用を返すために働いていた7年、最後は仕事をしながら自宅に小さな作業スペースを作りmoilを始め、ついにはちっちゃいアトリエまで構えるまできた。
 「耳をすませば」で主人公、月島雫の父はボソボソこう言った。「人と違う道を歩むのはいいけれど、それなりに大変だぞ」と。レールを外れたい訳でも、人と違う道を歩みたくて歩んでいるわけでもなく、もちろん大変な思いなんてまっぴらごめんwただ興味の赴くままに歩いているとその道は結構脱線ルートなんだと周りに指摘されて気づく。
 次の私の興味は、お店兼アトリエを持つこと。東京にこだわりがあるわけでもない。だって家賃高いし、狭いし、ねぇ? ただいずれ、パリでやり残したことを全うしにまた戻ろうと思う。それまで日々コツコツと丁寧に、私の好きな作品作りをしていこうと、コーパスをまとめているとその決心が固まってくるのでした。

ところで、今日からオンラインストアオープン致します!
復活です。

店頭イベントは9月を予定しています。
皆様にお会い出来るのをたのしみに準備中でございます!
また日時は告知させていただきます。
場所は都内です。
4649

 

2022.07.30